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経済と文学

戦後経済と日本文学

Seibun Satow

Jun. 12. 2009

 

「ああ、お金。ねえ、あなた。まったくこのお金っていうもののために、世の中にはいろんな嘆きや悲しみごとが降ってきますわねえ」。

レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ『戦争と平和』

 

1 経済小説

 政治・経済・文化において、それぞれ影響を及ぼし合っているが、変化の時間が経済が最も速い。経済は、現在を表象するのみならず、今後の社会を先行して指標する。ジャーナリストのカール・マルクスが経済を分析し、未来について語ったのは、彼がその機能を熟知していたからだとも言える。経済に着目して小説を書くとき、それは来るべき社会を具現化することになる。

 政治の季節にあった1957年、『文学界』は第4回新人賞受賞作に城山三郎の「輸出」を選出する。純文学と言うよりも、中間小説に属する趣のこの作品は経済活動を舞台とし、それまでにない新鮮さに溢れている。

 その1927年生まれの経済学者は、受賞に際し、次にように述べている。

 

 日本の小説は、どうも、経済の外で書かれているような気がするんです。小説が人間の生きかたを問うものであるとすれば、この経済界でどう生きるか、また、どういう関わりあいかたをしていくかということは、非常に大きな問題であるはずなのに、それらをはずれたところで小説が書かれていることに対する不満がありました。

 

 この作品を契機に「経済小説」というジャンルが誕生する。それは政財官界や企業、自治体、経済現象・事件をめぐる人間模様を描き、戦後日本の経済成長を背景に、いわゆる純文学ではなく、中間小説として広く受容されていく。リアリティをもたせるため、作者は綿密な調査・取材に立脚し、細部に亘ってそれを生かしている。一般論の持つ限界を小説は突き抜けられる。しばしば実在のモデルがおり、読者にとって、それを探すのも興味の一つとなっている。登場人物たちが個人的傾向だけでなく、その職業特有の認知順位を持って思考・行動する。主人公が銀行員だとすれば、彼はあくまでもその職業ならではの考え方や動作をする。それを離れては、作品のリアリティが失われる。この点の基準は、いわゆる順額よりもはるかに厳しい。スポンサーに配慮して、その設定を変えてテレビ・ドラマ化などできないし、そんなことを思いつくのは普段から人物造形の彫りが甘い作品を放映しているからにすぎない。ただ、文体と構成に関しては保守的で、類型的な作品も少なくなく、この点で新たな方法を文学史に寄与することはほとんどない。城山三郎が切り開いたこの地平に続々と後継者が出現する。経済に関して見る限り、中間小説の台頭により純文学は歴史的役割を終えたとする平野謙の主張はまったく正当であると認めざるをえない。

 一つのジャンルの起源が特定の作家に遡れるというのは、文学史上、決して頻繁にあるわけではない。SFやミステリー、サスペンスにおけるエドガー・アラン・ポー、西部劇のジェイムズ・フェニモア・クーパー、ドラキュラ文学のブラム・ストーカーなどそれほど多くはない。その意味で、城山三郎は日本近代文学史上有数の作家と認知しなければならない。

 新しいジャンルであることは確かであるが、城山三郎作品には「組織と個人」の葛藤がしばしば表われている。これは、言うまでもなく、日本近代文学における主要なテーマの一つである。城山三郎はそうした問題意識を継承している。

 ただ、従来は、経済ではなく、共産党や軍隊を舞台にしている。この改変はたんに時代の雰囲気に起因しているわけではない。戦争中、程度の差はあったものの、各国共に国家総動員体制を敷き、老若男女を問わず、人々を戦時体制へと組みこまれる。それは一部の人々の間でのみ共有されていた「軍隊的な感覚」が国全体へと行き渡る契機となる。

 森毅は、『景気の還暦』において、戦時体制が戦後に与えて影響について、次のように記している。

 

 やがて戦争とともに、すべての人が戦時企業社会に組みこまれるようになった。たとえば、稲垣足穂や富士正晴のように、およそ企業にそぐわない貧乏文士だって、ちゃんと徴用されている。

 学校教育というものが、国民体制として組織されたのだって戦争中である。企業国家日本の体制は戦争中につくられたようなところがある。

 それに、みんなが軍隊体験をしたものだから、会社も組合も正当も、軍隊的な感覚でものを語るようになる。反戦を主張していた政党の指導者まで、委員長をやめるときの言葉が、「これからは一兵卒として戦う」だったのには、笑ってしまった。「企業戦士」がつくられたのは、戦時国民体制によってだったのではないか。

 そう考えると、戦後民主主義だって、たかがイデオロギーだったのではないかと思えてくる。高度経済成長期で生活様式が変わったところで、それは企業社会の流れに適応しただけのような気がする。

 

 さらに、御厨貴も、『エリートと教育』において、戦時体制下での人材の「接触効果」が高度経済成長への道をサポートしたと次のように述べている。

 

 戦時動員体制は、一九四三(昭和十八)年に主として中学校以上の勤労動員、そして大学生の学徒動員を決めた。かくて戦前の教育体系が予想もしなかった方向への人材の戦時強制動員が行われた結果、戦後へいくつかの人材育成面での遺産を残すこととなった。もちろん、戦争のため多くの有為な人材が失われたことは言うまでもない。しかし明治の教育体系が解体の危機に陥った時、軍隊や軍需工場の中で、これまでは絶対接することのなかった人間同士の接触がおこった。嫌な思い出もたくさんある反面、戦後すぐの教育への情熱、進学熱はこうした「接触効果」(小池和男)がもたらした。猪木武徳の指摘にある通り、戦後の新制高等学校の進学率の上昇、激しい学歴競争と企業内競争が、経済復興から高度成長へと進む戦後日本をサポートしたことは疑いえないであろう。

 

 「軍隊的な感覚」が戦後を支配したのであり、経済発展もその産物であることは否定できない。経済を扱おうとするとき、この「組織と個人」に向かわざるをえない。城山三郎自身も元特攻隊員である。経済小説は、こうした歴史的・社会的背景の下で、誕生し、後で言及する経済変動の中で発展している。

 城山三郎を始めとして数多くの経済小説家が活動してきたが、佐高信は、『経済小説の読み方』において、彼らを「日向派」・「暗部派」・「「怨念派」の三種類に大別している。

 第一の「日向派」は「普遍派」とも言い、小島直記や城山三郎、高杉良らが含まれる。「総じて主人公に肯定的な人物」をとり上げる。彼は「どんな状況にあっても、理念やロマンを失わない」ような「反骨者」である。反面、有名人や大物を扱う場合、スキャンダルに触れないため、しばしば「伝記」となってしまう。「基本的に企業を肯定する『日向派』によってしか、企業が救われる方向は描かれないと思うが、しかし、その『日向派』の中にこそ、『偉人伝』へと傾斜する芽が潜む」。世間での評判とは別に、主人公が平凡で、等身大にとどめられている作品に見るべきものが多い。

 「日向派」は、文学史上のカテゴリーで分類すると、チャールズ・ディケンズやヘンリー・ジェイムズなど英米文学の写実主義に類似している。これは近代小説のプロトタイプである。近代小説はこの近代リアリズムを踏まえ、拡張させたものと言って過言ではない。近代化はありとあらゆる場面で起きているが、それを一時にとり扱うことはできない。そこで現実を無数に分割して、個々を描き、たとえそれぞれが小さくとも、その総体として近代社会を浮かび上がらせればよい。近代社会を生きる普通の人々を描くには、既存の美学・倫理の考えから捉えるのではなく、社会的に公正な目で観察する姿勢が不可欠である。等身大であるために、登場人物の性格・内面に深く立ち入ることができ、その描写を通じて、彼らの暮らしぶりや思考、偏見などを明らかにする。どこにでもいそうな人物を扱う手法である以上、権力者や英雄を主人公とするのには向かない。

 第二の「暗部派」には、清水一行や広瀬仁紀、安田二郎、笹子勝哉、大下英治などが属している。このタイプは「なかなか表面には出てこないスキャンダルや、汚職等の政治のカゲを描く」、「経済小説は、『きれいごと』ではないビジネスの実態をあますところなく描き出すところに価値があり、その意味では『暗部派』の書く小説が、最も経済小説らしいとも言える。これらの事実をぬきにして人間を語ってもしょうがない」。彼らに対して、「ステロタイプ」であるとか、「えげつない」とか批難が向けられるが、それは確かであるとしても、「企業内部のスキャンダルは、事実、イヤになるほどステロタイプであり、えげつない」。

 「暗部派」は、言ってみれば、現代の「マックレーカーズ」である。20世紀初頭のアメリカでは、義憤にかられたジャーナリストや作家は政治腐敗、大企業の横暴、児童労働、貧民街の実態、売春、移民問題、人種差別をペンで告発し、社会の改良を訴えている。リンカーン・ステッフェンズは『都市の恥』で政界の腐敗を糾弾し、アイダ・M・ターベルは『スタンダード石油会社の歴史』 で石油カルテルの不正を暴露、フランク・ノリスは『蛸』で小麦農民による横暴な鉄道会社への抵抗を描き、エドウィン・マーカムは『囚われの子供たち』で児童労働の実態を暴いている。1906 年,セオドア・ルーズベルト合衆国大統領が政財界の腐敗を暴き立てる彼らを「マックレーカーズ(Muckrakers)」と揶揄する。それはジョン・バンヤンの寓意物語『天路歴程』に登場する人物で,肥やしばかりを仰き続けて天上の神の恩寵に気づかぬ「肥やし熊手を持った男(The man with a muckrake)」に由来し、下ばかり見て、粗捜しをする連中という意味である。

 しかし、1906年、その偉大な大統領もアップトン・シンクレアの『ジャングル』にはショックを受け、このマックレーカーの主張に耳を傾ける。舞台はシカゴの食肉工場で、労働者の多くは後発移民のリトアニア人である。その労働環境たるや、反吐をもよおすほど不潔だ。労働者が肉を煮る大鍋に落ちたのに、そのまま処理され、人肉が市場に出回ってしまった、腐っているとクレームがついて回収されたハムやソーセージに薬品を注入して再出荷した、倉庫内の製品の上にネズミの糞が大量に溜まっていたなどの記述に溢れていた等々と続く。これはルポルタージュではなかったが、丹念な調査に基づいており、決して誇張やでまかせではない。『ジャングル』を読んだアメリカの人々は驚き、こんなものを食べさせられていたのかと怒りを爆発させ、食肉産業と当局を激しく批難する。1906年、怒り狂った大統領と世論に押された議会は食肉検査法と純粋薬品製造法を成立さる。これは『ジャングル』発表からわずか半年後の出来事である。

 第三の「怨念派」は、森村誠一や渡辺一雄、咲村観、門田泰明などが代表している。日向派も暗部派も、「インサイダーとアウトサイダーの違いはあれ、企業に勤めたことのないジャーナリストが多いのに対し、『怨念派』は、かつて企業に勤め、それに怨念を抱いている点が特徴である」。こうしたサラリーマンの「怨念」があるため、「暗部派」同様、モデルとされた企業は彼らの小説を喜ばないけれども、基本的に企業活動自体は肯定している点で日向派と共通している。怨念派は日向派と暗部派の中間に位置すると言える。

 企業内部にいる作家は、概して、その外部の書き手以上の作品を生み出せない。会社勤めをしたことのない城山三郎は、佐高信の『経済小説の読み方』によると、その理由について次のように述べている。

 

 岡目八目で外からのほうがよくわかるんです。ゴルフで、自分のことはわからないのに、他人のフォームがよくわかるのと同じですネ。私自身は、軍隊で組織にイヤ気がさしちゃったんだけど、まわりにいる人は全部といっていいくらいサリーマンで、ひとごとと思えない。海外へ出されて、原住民に殺された人や、暴力団につけこまれて失脚した銀行員などを、身近で見るんですよ。組織に入ると、その人間のよさに関係なく、こわいことが起こるわけで、そういう中で働いている人を、心情的にはつきはなさず、内部に入りこんで見て書いているわけです。組織は悪だと、はじめから決めてかかっていない点がサラリーマンに喜ばれているのかもしれません。

 

 内部にいたため、経験に引きずられ、社会的他者としての視線が弱い。そこで、怨念が必要となる。「サラリーマン時代には怨念が自閉される。しかし、作家になると、それが解き放たれ、さまざまな考えをもっている人とぶつかって作品が叩かれることによって、また、怨火の燃料が補給される」。「こう言うと、企業の外に出なければ迫力ある作品は書けないように思われるかもしれないが、要は、どれだけクールに属する企業を客観性をもって描けるか、ということである」。この怨念の爆発を契機にするため、怨念派は、森村誠一がそうであったように、松本清張や黒岩重吾などの社会派推理小説とも相通じるような作品も発表している。彼らは歴史や社会に覆い隠された怨念を掘り出す。

 「怨念派」は、経験者であるかどうかはともかく、THA・ドライサーやスティーヴン・クレインなどのアメリカ文学の自然主義に近い。通常、マックレーカーズも自然主義の一種と見なされている。しかし、ここでは醜聞暴露の傾向が強いマックレーカーズをその急進派として分離する。ドライサーやクレインら自然主義穏健派は社会悪を糾弾するのではなく、普通の人々が社会に翻弄されて転落していく姿を描いている。ドライサーの『アメリカの悲劇』は、チェスター・ジレットがニューヨーク州北部のビッグ・ムース湖で同僚の女工グレース・ブラウンを殺害した1906年の事件が直接的なモデルになっている。ただ、ドライサーは、長年に亘って殺人事件を調べていく中で、これと共通の特徴があるケースが多いことを見出している。カネと色の欲望にとり付かれた貧乏な青年が金持ちの令嬢と結婚をするために、邪魔になった自分と似たような境遇の貧しい恋人を殺害する。ドライサーは、こうした事件をアメリカ社会の歪みがもたらす「悲劇」として描き出す。社会に押しこめられた怨念を作品にするという点で、自然主義穏健派と「怨念派」は似ている。

 こうしたタイプの殺人事件が実際に複数起きていたとしたら、確かに当時のアメリカ社会特有の「悲劇」と呼べるだろう。河合幹雄は、『日本の殺人』において、1959年版司法研修所調査叢書第5号『殺人の罪に関する量刑資料上・下』を読み解くと、少なくとも高度経済成長に向かいつつある1950年代日本にはないと指摘している。この資料は、司法試験に合格した研修生向けに、何百件にも及ぶ事例について被告の生い立ちも含めた事件の背景ならびに量刑の理由などが詳細に解説している。これによると、別れたい側が邪魔になったス手を殺すケースはただの一つもなく、別れたくない側がつねに加害者である。もちろん、完全犯罪がなかったかどうかまではこの資料からはわからない。

 なお、この『アメリカの悲劇』は1931年に映画化され、それを見た小林秀雄が原作よりいいと主張したのに対し、谷崎潤一郎が『文章読本』の中で、原文を引用して、ドライサーを擁護している。谷崎は、一般の文学史上では、反自然主義に区分される。自然主義は、近代化の進展の違いからか、各国でかなり様相が異なる。日本ではそれは私小説を導き出している。自然主義の多様性がその後の文学的展開の相違にもつながっている。

 城山三郎から始まったこのジャンルも、ストーリー展開のテンポが速くなったり、ミステリーやアドベンチャーなど他のジャンルが融合してきたりとマイナー・チェンジはあるものの、佐高信の三分類は現在でも有効である。

 経済小説には、明らかに、モデルが明確であるにもかかわらず、「フィクション」と銘打っている作品が少なくない。これには文学的と現実的の二つの理由がある。

 経済小説は、いずれの派でも、「近代小説」に属して、その文学的特徴から「フィクション」とした方が好都合である。近代小説において、読者は登場人物は性格・心理描写を通じて共感し、作者との間で信頼関係を結ぶ。しかし、これをノンフィクションとして作成すると、この図式が成り立たなくなる。と言うのも、そのジャンルでは、取材・調査して得た証言を用いることはできても、作者が登場人物の内面をあれこれ想像して書くことは許されないからである。

 もう一つは、作者が訴訟や暴力から自分の身を守るという極めて現実的な理由である。経済小説では、個人や企業、組織にとって公にされたくないことも頻繁に言及される。そのため、作者を相手取った名誉毀損などの訴訟に発展する可能性もある。また、「フィクション」として取材・調査して手にした情報の7割程度に抑えておけば、当事者への脅しにもなる。もし自分や家族に何かがあったら、すべて書いてやるからそのつもりでいろよというわけだ。脅迫状や脅迫電話は言うに及ばず、駅で電車を待つ間、線路から離れて立つのが習慣づけられている作家さえいる。読者の方も、その辺の事情を承知して、想像力を働かせながら読む。こういう状況からも、経済小説家は、純文学でしばしば見かけるような思いつきや思いこみで書くことなどありえない。

 今日では、純文学や中間小説、エンターテイメント小説という区別は、さほど重要ではない。垣根も曖昧になっている。これら三つのカテゴリーの優劣を判定するなど無意味である。けれども、作者と読者の関係は、いわゆる純文学では、おあまり目にかかわらない。

 経済小説は、このように、読者の想像力に任せているところが多く、ヘンリー・ジェイムズの問題意識を継承した文学である。このウィリアム・ジェイムズの弟はナサニエル・ホーソーンの伝統を踏襲しながらも、外界に対する心理的反応を丹念に描写する。ドラマティックな出来事は起こらないが、ほとんどの作品に色恋とカネという欲望をめぐる問題が見られる。スキャンダラスでエロティックな問題を扱いつつも、直接的な描写を回避し、それを読者の想像力に任せている。

 ヘンリー・ジェイムズは、『小説の技法』において、「一班をもって全豹を推す(the faculty which when you give it an inch takes an ell)」ことが小説の描写であると次のように述べている。

 

 目にふれたものから見えざるものを推測し、物事の含意を見抜き、図柄から全体を判断する能力、言い換えればそれは人生の特定の隅々まで十分に知ることができるほどに全体的に人生を感じとる能力であるが──このような能力がひとつとなれば体験を構成することができると言ってよいであろう。

 

 これは読者にも要求される。作者と読者は「一班をもって全豹を推す」ことを共有し、お互いに信頼する。自由・平等・友愛の近代の理念は個々で達成される。経済小説はこの関係を具現する。ヘンリー・ジェイムズが「小説のマスター」と呼ばれている意味において、それは近代小説の正統とも言える。

 そうは言っても、ヘンリー・ジェイムズは、必ずしも、社会性の強い作家だったわけではない。芸術と社会の関係をめぐって彼はHG・ウェルズと論争している。前者が想像力を重視し人間造形に重点を置くのに対して、後者は、『ブーン』において、芸術作品の自律性以上に社会との関連性を重視している。経済小説はウェルズの考えを取り入れたヘンリー・ジェイムズが正確である。

 以上のように、経済小説は近代小説の伝統を踏襲している。しかし、これまで経済小説の特徴を論じてきたが、アメリカの場合、必ずしも同じではない。経済状況が異なれば、それを舞台とする小説の傾向も変わる。それは森村誠一の『銀の虚城』とアーサー・へイリーの『ホテル』を比較すると、明瞭になる。ヘイリーはイギリス出身であるが、この作品はニューオリンズを舞台にしているため、参考にする。「組織と個人」という問いから出発した経済小説に属する前者の主役は主人公のホテル万である。読者は、心理描写を通じて主人公に共感し、それによって作者と信頼関係を結ぶ。一方、後者では真の主体はホテルであり、「組織とは何か」が根本的な問いである。読者は主人公ではなく、ホテルという組織体が登場人物たちにもたらす悲喜劇に惹きこまれる。これは近代小説ではなく、文学ジャンルでは、アナトミーに分類される。それは諷刺であり、記号を共有することで読者と作者はその関係をつなぐ。心理描写の代わりに、文体と構成を大大胆に冒険できる。

 アナトミーは「医者の文学」であり、社会を諷刺する。ただし、それは再現ではなく、記号化した表象である。傾向は外向的・知的であり、扱い方は客観的である。登場人物は、病気や怪我の分類よろしく、社会的・学問的類型に従っている。展開は因習的ではなく、極めて大胆で、時として天衣無縫や破天荒でさえある。アナトミーは総合的・体系的な知識・認識に基づいているため、読む側の負担が大きく、読者に能動的な姿勢を要求する。書き手には、当然、ジョン・ドライデンのように、夏目漱石ほどの読者を尻込みさせるだけの圧倒的な学識・教養を有していなければならない。短編形式は「会話」や「座談」である。

 アメリカあるいはそこを舞台とした経済小説に「組織と個人」に関心を寄せる作品はあるが、日本ではアナトミーのタイプはほとんど見かけない。この違いにはさまざまな理由が考えられるだろうけれども、急速に経済成長していく国とすでに遂げた国という点もその一つとして挙げられよう。戦後の日本は、後にたどるように、焼け野原から世界第二位の経済大国へと変貌している。ホンダやソニーといった町工場が世界的な企業へと成長する、戦後日本の発展と平行している。企業と国家の目標がほぼ一致し、そういう一方向に進んでいく組織の中で個人が葛藤や矛盾を感じる。後に触れるソロモン・ブラザーズでのヘンリー・カウフマンのケースが示しているように、「組織と個人」という問題は発展途上にある組織体で起こりやすい。しかも、日本の政財官界もアメリカの政治・経済・社会の動向に影響を受け、太平洋の向こう岸あっての島国をつねに意識している。経済小説は伸し上がっていく新興組織の問題を扱わざるを得ない。一方、アメリカは、戦後一貫して、政治力・経済力・軍事力の面で世界最強であり、50年代に至っては「パックス・アメリカーナ」とも称されるほどである。すでに巨大化した組織は、当初の理念や目標から離れて、それ自体が生き残っていくことが目的化している。文学としても個人ではどうにも手に負えない組織体の生命力を描かざるを得ない。日本は経済成長一心不乱に経済成長を追い求め、アメリカは経済繁栄を謳歌した世界最大の経済規模を持ちながらも、その覇権が何度か怪しくなっている。

 とは言うものの、高度経済成長が終わって久しく、官僚機構も新宿駅のようにどこがどうつながっているのかわかりにくくなり、またアメリカ国債の保有高で中国に抜かれたという状況では、従来の「組織と個人」を根本的テーマとするスタイルだけでは、不十分だろう。しかも、一般のビジネスだけでなく、グラミン銀行を創設したムハマド・ユヌスのようなソーシャル・ビジネスに従事するソーシャル・アントプレナーも世界的に活動を活発化している。日本にも、その動きが見られている。「組織と個人」は依然として有効な問いであることは間違いない。しかし、既存の枠組みを維持しながら、新しい事象を織りこむのではなく、大胆な挑戦も必要である。

 

2 グローバル化した自己

 因習的な経済小説と違い、いわゆる純文学は新たな方法論を提示することで文学に寄与する。けれども、少なくとも、この一年間に発表された若手の小説を読む限り、ヘンリー・ジェイムズに舞い戻り、それを超えるものでもない。一例として挙げると、喜多ふありの『けちゃっぷ』や安戸悠太の『おひるのたびにさようなら』は、テレビやインターネットを用いながら、真偽をめぐる想像力の問題を扱っている。いかに新奇な大道具小道具を使っても、ヘンリー・ジェイムズを知る読者であれば、ずいぶんと古典的な作品だと思わずにはいられない。ヘンリー・ジェイムズは中期の作品群において想像力の問題をテーマに据えている。まず、『ねじの回転』(1895)はアルフレッド・ヒッチコックを思い起こさせるサスペンスである。お屋敷で愛らしい子供たちを教えることになった女性家庭教師は、あるときから死んだ下男たちの幽霊を見るようになり、監督を強化するが、実は、それが彼女の妄想だったのではないかという真偽の決定不能性を巧みに描写する。また、彼は、『ほんもの』(1892)において、肖像画とモデルとの関係を再考し、『じゅうたんの下絵』(1895)では、ヒュー・ヴィアカーの小説の本質を見逃していた批評家によるその謎解きを描いている。むしろ、現代の読者にとっては、ヘンリー・ジェイムズの方が新鮮に感じられるかもしれない。

 しかし、現実の社会はヘンリー・ジェイムズの問題設定ではもはや捉えきれない、それを今回の金融危機をめぐって顕在化したレバレッジや証券化などが象徴的に示している。その意味で、この一年間の新作は、根本において現代的ではない。

 まず、「レバレッジ(leverage)」であるが、投資において信用取引や金融派生商品などを用いて、手持ちの資金よりも多い金額を動かすことである。貸し手から集めた元手資金に加えて、金融機関から借り入れをすることで、元々の投資額と比べて、より効率的な運用利回りの提供を可能にする。外国為替証拠金取引、いわゆるFX取引も、基本的には、レバレッジである。レバレッジは自己資本と比較して得だけでなく、損も巨額になる危険性がある。そのため、倍率設定が重要となる。実際の運用では、ファンドが担保を無限連鎖的に広げてしまうことがしばしば起きる。購入した資産担保証券をさらに担保として資金を借り入れ、その資金で別の資産担保証券を購入するといいう作業が繰り返される。ベア・スターンズ傘下の二つのヘッジファンドの場合、投資家から集めた資金が約16億ドルだったのに対し、銀行などから借り入れていた資金は200億ドルにも上っている。また、ゴールドマン・サックスならびにメリルリンチ、モルガン・スタンレールの米国の三大投資銀行は、03年頃までのレバレッジ比率が20倍前後だったのに、07年では、30倍以上にも達している。レバレッジ比率は総資産を株主資本で割った比率である。経済において、楽観的な現実主義は最も好ましいが、楽観的な空想主義は破滅を招く。民間部門の金融ビジネスにおけるレバレッジは大幅に減少しておくと予測される。しかし、今回の金融危機に対する政府の財政出動には、レバレッジを利かせた財政運営が見られる。レバレッジの危険性は依然として世界から消えていない。

 次に、証券化は企業金融の証券化と資産金融の証券化の二種類に大別される。前者は企業が直接金融によって資金調達を活性化させることである。後者は、19906月の証券取引審議会報告によると、「企業が保有している特定の資産を分離して、その資産から発生する現在または将来の確実なキャッシュ・フローを裏付けとして証券化」することで、以下で説明する証券化商品はこちらに属する。さらに、これは金融資産の証券化と実物資産の証券化に分けられる。

 金融資産の証券化は金融機関と個人との相対取引によって発生した個別債権を集め、均質な証券商品に組み直し、流動性を高くする手法である。なお、流動性とは現金化という意味である。不動産担保融資の債権を証券化したモーゲージ証券のほか、消費者ローン証券やオート・ローン証券などがこれに当たる。一方、実物資産の証券化は不動産など一件あたりの取引金額が高く、流動性の低い資産を対象とし、それを均質な証券に小口化して流動性を高める手法である。いずれもたんに流動化を高めるだけでなく、証券としての法規制に従わざるを得なくなるため、情報開示が向上し、投資家にとって購入しやすくなる。

 証券化の仕組みはいささか複雑である。証券化は資金調達やバランスシート調整を目的として行われる。その際、「オリジネーター(Originator)」と呼ばれる原債権者から債権を切り離し、発行される証券の信用力を債権者から独立した資産によって裏付ける。それはオリジネーターが「資産担保証券(ABS)」の発行者に債権を譲渡するということである。そうすると、オリジネーターの企業としての信用度とは無関係な信用力を持った証券が生まれリ。通常、資金調達ではバランスシート上の資産と負債の両方である貸方を参照する。しかし、債券をABSに譲渡して証券化しているため、バランスシートから対象資産をオフバランス化でき、借方、つまり資産部分だけを活用する。オリジネーターにとって、これにより財務面がすりむかされる。譲渡後も、オリジネーターは「サービサー(Servicer)」として当該債権の管理・回収を行う。従って、オリジネーター原債務者と従来通の事業関係を継続できる。債務者にも、変化は感じられない。

 ABSの発行者は、投資家に元利払い義務を負う法的責任がある。そのため、事業目的を証券化だけに限定した「特別目的媒体(SPV)」を設立し、投資家に余分なリスクを被らせないようにする。SPVの形態には会社や信託、組合などがある。ABSの信用力を高めるために、さまざまな手法がとられる。優先的な弁済順位を付けたり、プールした債券からの元利回収の一部をSPVの勘定に積み立てたり、より格付けの高い「新陽保管者(Credit Enhancer)」による保証や追加担保の差し入れをしたりするといった具合である。

 証券化商品を広く投資家に販売するためには。当該証券の格付けが必要となる。なお、専門機関による債権の格付けは満期の際の不履行リスクを評価しているのであって、中途解約を保障しているわけではない。また、債権において、地方債や社債がその国の国債以上に格付けられることはない。販売を担当するのは証券販売引受業者、すなわち証券会社や投資銀行である。彼らは、販売後も、「マーケット・メーカー’Market Maker(」として流通市場での格付けを行い、証券化商品の流動性の維持を図る。

 しかし、この作業が繰り返されていくと、本来は情報の開示性を高めるはずだった証券化商品は不可視化してしまう。証券化商品上で債券は何度も何度も切り貼りされ、サブプライム・ローンのようなハイリスクな債券がミドルリスクやローリスクなものと入り混じる。どの証券化商品に不良資産が含まれているかを判別することは難しい。景気後退等によって不良債権が生じると、どの商品にどれだけ該当するものが含まれているのか見つけるのが困難であるので、金融機関はお互いの経営状況に対して疑心暗鬼に陥る。おまけに、自己資本に乏しい投資銀行は、証券化商品をつくるために、レバレッジで債券購入の資金を調達している。それにも、比率を上げる目的で、切り貼りが繰り返されている。そういった金融商品が世界中にばらまかれる。

 経済はさまざまに関係しているので、自分のあずかり知らぬところで起きた事件や出来事が回りまわって、かかわってくるというのは、後に触れるショックの数々からも明らかなように、よくある。また、バブルに踊った金融機関が巨額の不良資産を抱え、しかも景気の悪化に伴い、優良債券も不良化し、債務が次々と膨らむ事態もしばしば目にする。しかし、今回の金融危機は不良債権が細切れにされて証券化商品として世界中にばらまかれたという点で新しい。時間をとめられたとしても、汚染舞の混入した可能性のある菓子や焼酎からそれを抜き出すのと同様、不良債権を見つけ出すのは難しい。

 経済がグローバル化し、人・カネ・モノ・情報が世界中を駆けめぐり、社会はペースト化している。グローバル社会で、成長するために、企業は一傾向に偏重することなく、人種や民族、宗教、性別、障害を入り交えて人材を採用する。多種多様な価値観・認識の対話の力によって市場を創出しようとするからである。ヘンリー・ジェイムズ流の想像力の問題設定は牧歌的であり、この「ペースト化した社会」では有効ではない。自己もグローバル化してしまい、他者と入り混じっている。切り刻まれた自己がさまざまな自己と混ぜ合わされてさらに細切れにされ、世界中にばらまかれる。ジョゼフ・ナイは相互依存論を展開しているが、世界は相互浸透さえしている。

 「グローバル化した自己」に関する意識が希薄なのは、若手の小説家たちだけではない。2009412日付『朝日新聞』の「耕論」における東浩紀と中島岳志の意見も、同様に少し前の認識に若い批評家も依然としてとらわれていることをよく物語っている。

 東は、今日、左=リベラルや右=保守という枠組みの意味は失われていると指摘する。80年代末まで、左翼は反権力・反ナショナリズム・福祉国家志向で連帯することになっていたが、そういった「パッケージ化」はもはや有効ではない。反貧困を唱えるワーキング・プアは政府機能の拡大を望まない点で反福祉国家であり、外国人労働者は遺跡を支持するナショナリストである。また、中島も、1975年生まれ前後の書き手は、左や右といった分類されるのを内向きであるとして嫌っていると言う。色分けされた既存の雑誌ではなく、ネットを通じて、「シングル・イッシュー」、すなわち個々の問題についての言論が主流になり、それぞれに異なる論客が影響力を持つだろう。

 『動物化するポストモダン』や『中村屋のボース』の作者を始めとして、1990年代に選挙権を獲得した層は、イデオロギーによる一貫性に対して反発を覚える。現実、そんな白黒はっきりするようなものじゃないだろうというのが口癖だ。二項対立でとらえたがる先行世代都違って、自分たちは複雑で入り組んだ議論をしていると自認する。もっとも、国際政治の舞台では、東西冷戦の最中であっても、米中接近や中越戦争などのように、必ずしもイデオロギーに縛られてはいない。イデオロギーに束縛されることを忌まわしく思うため、彼らはシングル・イッシューへの発言を行う。各問題への発言をまとめようとすると、著しく断片的であるが、それは矛盾とは認識されない。それを語っている自己の一貫性は確信しているからである。いかなる問題へあっても、自分が語れば、それは自己自身において統一されている。その結果、コミュニケーションは一方通行にしかならない。また、彼らはしばしばネットに連帯や議論の可能性を見出す。しかし、インターネットは、元々、体系的知識を持った専門家・研究者が学術目的で使っていたため、その出自から生じる問題点がある。総合的・体系的・批判的認識を志向していないまま利用すると、独善性・衝動性・断片性に陥る危険性が高くなる。黎明期の時点ですでにそれは研究者の間ですでに表面化している。ソーシャル・スキルが大幅に制限されるため、一旦口論が始まると、感情的になり、しつこく、エスカレートする。

 

 どろどろした人間関係というのがあって、日本人がどうもその魅力に抗しがたく、とくに団塊の世代を含むそれ以前の人々は、ポーズとしては嫌がりつつも、そういうつながりに浸かってしまう。一晩中酒でも飲んで友たちと人生について、哲学について、日本の将来について語り明かすというのは、ひょっとすると、今でもやっている人がいるのではなかろうか。

 ネット世代は、そこから遠いところにいる。彼らはネットの画面上だけの関係で十分であるらしい。未知の人と話すときは、まずネットで検索してその人について知ろうとする。そこで得た情報で満足する。そういう情報がないと、不安になるのかもしれない。そのかわり、相手についてあってから探りを入れるというような面倒なことはしないで清む。初対面時に必要だった風格とか押し出しとかは、必要とされない。

 ネットの関係は、始まるのも早いのだが、あまり後を引かない。すぐに切っていい。あっさりと、さっぱりとしている。

 人間関係でのにおいや触覚を必要としていない。動物ではなく、まるで野菜のようなのだ。さくさくという野菜を切る音を彼らが好んで使っているのには、そういう背景があるのではなかろうか。

(金田一秀穂『気持ちにそぐう言葉たち』)

 

 正直、これは「物語自己」そのものである。東西冷戦というイデオロギー対立が終わった後、世界各地でエスニックや宗教に基づくナショナリズムが勃興する。それはアイデンティティを求める衝動であるが、ポストモダンを通渇しているため、体系的ではない。1990年代に世界に広まったこの自己意識を東や中島は語っている。

 第二次世界大戦後の世界を東西冷戦というイデオロギー・ポリティクスが支配する。1960年代後半から後に「ポストモダン」と呼ばれる潮流が現れ始め、1980年代に最盛期を迎える。ポストモダンにおいて、自己は多様化・可変化・断片化として把握される。ケネス・J・ゲーガンはそれを「飽和した自己(Saturated Self)」と命名している。近代は社会を一元化し余としたが、実際には、多元化している。人々は多様な世界を生き、可変的・多重的な複数の自己を経験している。けれども、テクノロジーの進展などにより、これら複数の自己は分離したままでいることは困難である。さまざまな自己が同居せざるをえない。「社会的飽和(Social Saturation)」、すなわち社会的状況・関係が複雑に入り組んだ飽和状態に達し、一方で、多種多様な自己が群居する状態、すなわち「群居化した自己( Populated Self)」が蔓延する。両者がお互いに対応しようとする以上、社会も自己も飽和化し続ける。

 東西冷戦が終結し、イデオロギー・ポリティクスに代わってアイデンティティ・ポリティクスが世界各地で噴出すると、「物語自己(Narrative self)」が受容される。人は危機に直面したとき、物語の形式によって自己を救済・回復する。しかし、この物語は、ポストモダン思想を経験しているので、内容が固定的ではなく、可変的である。場面に応じてつくりかえられる。思いつきや思いこみが入り、場当たり的でですらある。一貫性がないけれども、それを語る自己は一つであり、そこで自己の絶対性が確認される。ポストモダン状況下で群居していた自己と他者は、この自己の物語りによって、再構成される。

 カール・マンハイムは、『イデオロギーとユートピア』(1929)において、イデオロギーを「全体的イデオロギー」と「部分的イデオロギー」に二分している。前者は一集団や一階級、一世代に全体的意識構造を提供する。自由主義や社会主義は体系的であり、これを代表する。一方、後者は意識的な虚偽や隠蔽、偽造を含み、全体としては支離滅裂であるが、部分的に見れば、説得力があるように見える。この典型がナショナリズムである。それは部分的であるため、いかなる思想とも結びつけるという強みがある。イデオロギー・ポリティクスは全他的イデオロギーの対立であり、アイデンティティ・ポリティクスは部分的イデオロギーの衝突である。

 けれども、相互依存・相互浸透が進展している世界では、自己と他者が入り混じっている以上、自己の一貫性から思考することは十分でないどころか、自身にとっても不利益な帰結が到来する危険性さえある。個人的合理性は必ずしも社会的合理性にはつながらないと言うのが経済学の教えるところである。しかも、地球温暖化問題を前提として、経済も動かなければならなくなっている。今やアイデンティティ・ポリティクスではなく、エコロジー・ポリティクスの時代へ突入している。むしろ、人と人とのつながりや集いから考えを始める方が賢明である。言うまでもなく、それらは非常に多種多様であるし、新しいあり方もつねに生まれているため、改めて解剖して検討しなければならない。自己はこうしたつながりや集いから見出される。

 シングル・イッシュー傾向は全体像が見えにくくなった現状に対する苛立ちから生じている。しかし、シングル・イッシューとしての考察は本質的ではない。地球温暖化をシングル・イッシューとして論じることはできない。経済活動という予測困難な現象も考慮しなければならないからである。ペースト化した社会では、個々の問題ではなく、それらの連関を論じる必要がある。連関性から経済活動を認識することの重要性は、18世紀にフランソワ・ケネーが教えている。それには、連関を明らかにするための協同作業を行う知的集合体が不可欠である。対話の力が出発点となる。

 経済に着目すると、次期社会のベータ版を見ることができる。日本文学はもっと経済にとり組んでもよい。

 

3 経済の時代

 アラン・グリーンスパン前米連邦準備制度理事会議長は、20081023日、サブプライム・ローン問題に端を発した金融危機について、下院監視・政府改革委員会において、「われわれは一世紀に一度の信用津波の最中にある(We are in the midst of a once-in-a century credit tsunami)」と証言している。その時点ですでに、ベア・スターンズとリーマン・ブラザーズは破綻、ゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーは商業銀行へ転業、メリルリンチはバンク・オブ・アメリカに買収され、五大投資銀行が姿を消し、AIGも事実上国有化されている。この意見が決して誇張ではなかったことは、安易に引用すべきではないという慎重な意見もあるものの、その後、嫌と言うほど世界の人々は味わうことになる。194月にクライスラー、6月にはGMが連邦破産法11条の申請を発表している。「予測されるけれども目に見えない危険は、人の心を最もかき乱す」(ユリウス・ァエサル『ガリア戦記』)

 当初、日本の金融機関は、欧米ほど不良資産にさらされていなかったこともあって、金融危機はそこまで深刻とならないと見られていたが、2009225日付『フィナンシャル・タイムズ』紙が社説で批判している通り、「慢性的な輸出依存により、世界の需要が衰えると経済が止まってしまった」日本経済の現状に対し、麻生太郎政権は不十分な対応を続け、危機を悪化させている。

 麻生首相は過去最大15兆円にも上る09年度の補正予算を組むが、その財源として国債の大量発行に頼っている。国と地方を合わせた長期債務残高は、08年度末の時点で、787兆円であり、GDP比は先進国最悪の水準である。これは将来世代へのツケを残すだけではない。市場で国債が供給過剰となり、債権価格が下落し、金利が上昇する危険性がある。長期金利の上昇は、大手金融機関の住宅ローンや企業向け貸出金利の引き上げを招き、経済活動を鈍化させてしまう。国債の大量発行は景気浮揚どころか、その前に金利上昇が始まってしまえば、資産価格が暴落し、生活水準の低下を招き、さらに経済を悪化させかねない。

 この補正予算案に対して、国内のみならず、海外からも厳しい反応が寄せられている。中でも、2009513日付『朝日新聞』の「経済気象台」によると、IMFはシニカルな見方を示している。政府債務がGDP比を60%に達する欧州では、将来の負担増を考慮して、支出を抑制するため、財政出動による景気対策に期待はできない。日本の政府債務のGDP比は160%を超えているから、そうした政策は狂気の沙汰ということになる。また、かつてスウェーデンが財政危機に陥った際、支出した財政コストをほぼ5年で回収しているのに対し、日本は1割もできていない。前者が納税者からの借金を5年で返済したのに、後者は大半を事実上踏み倒している。スウェーデンが若大将だとすれば、日本は青大将だというわけだ。

 東アジア諸国は膨大な貿易黒字を抱えているが、それが国内ではなく、欧米の証券・債券市場に回っている。これは資産運用として直接金融よりも貯蓄といった間接金融が人々の間で好まれているからである。国内の金融市場は、外国人投資家に依存する体質になっている。この状況は為替レートを不安定化させる一因であり、貿易立国としての自身の基盤を危うくする。日本の国債は、2005年段階で、93%が国内で吸収されている。郵便局はその主な購入先である。郵貯は企業等への融資が認められていないため、資金運用として国債を買っている。民間金融機関は、景気がよくなった際に、企業に融資することを睨んでいるので、日本国債だけを購入していられない。郵政事業の民営化をきっかけに、かりにそれを解除したとしても、ノウハウがないので、既存の銀行に太刀打ちできない。しかも、すでにゼロ金利政策によって金が余っているけれども、大手を中心に企業が工場を人件費の安い海外へ移転する動きが活発であるため、国内の設備投資が減っている。そこで、民間金融機関は外国人投資家に融資する。彼らはドルを円と交換して日本市場に投資している。しかし、国外で何か事件や出来事が起きた場合、慌てて資産を引き上げ、為替レートが急激に変動する。日本を始めとして東アジア諸国は貿易立国であるため、その不安定な為替レートでは企業の経営を圧迫し、景気を悪化させる。証券市場を国内からの直接投資や投資信託を増やすことが為替レートの安定化につながる。預金預け入れ限度額を下げるというのは、一つの方策である。もしも景気浮揚のために国債を大量に発行する目的で、郵貯の預け入れ限度額を上げると、民間銀行から預金を吸い上げてしまう危険性がある。自己資本比率の規制により、民間銀行は融資を絞りこまざるを得ない。中でも地銀や信用金庫など中小規模の金融機関はこの影響を強く受ける。中小企業がそこから借りられなくなり、黒字でありながら、倒産するケースも頻発し、景気をさらに冷えこませる。

 経済において、国境は決してファイヤー・ウォールとして働かない。過去20年を振り返ってみても、必ずしも日本経済に直接的に起因していたわけではないショックが23年に1度の割合で生じ、結局、対岸の火事とはなっていない。

 

発生年

主なショック

1989

ベルリンの壁の崩壊

1990

湾岸戦争

1991

ソ連解体

1995

阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件

1997

アジア通貨危機

2001

米同時多発テロ・アフガニスタン侵攻

2002

SARS流行

2003

イラク戦争

2004

スマトラ島沖地震

2005

鳥インフルエンザ流行

2008

ギョーザ中毒事件・四川大地震

 

 2009年にも、424日、WHOはメキシコで新型インフルエンザによる死者が出たと発表し、その後、世界各地に感染者が確認されている。人の移動が大量かつ広範囲である現代社会では、多くの現象が世界規模で拡散する可能性がある。この新型インフルエンザは弱毒性ということがしばらくすると判明したけれども、変異して1918年のスペイン風邪のようなパンデミックになることを警戒するあまり、国内でいささか過剰とも思われる反応も見られている。528日の参院予算委員会において新型インフルエンザ対策等に関する集中審議が行われ、参考人として出席した羽田空港の木村盛世検疫官は、「毎日毎日、テレビで、主に成田空港で、N95マスクをつけ、あるいはガウンをつけて検疫官が飛び回っている姿は、国民に対してのアイキャッチというか、非常にパフォーマンス的な共感を呼ぶ。そういうことで利用されたのではないかと疑っている。水際対策に偏ると、国内に入ってからのことがおろそかになると思う」と証言している。

 思いがけない衝撃は、実際には、以上の通り、頻繁に生じている。起こるものだという前提の下に、政治的・経済的・社会的活動を進めなければならないはずだが、なかなかうまくはいかない。東西冷戦の終結以降、世界経済は相互依存を強めており、国際的な金融・貿易取引を行っている限り、不規則な衝撃に日本も無関係ではいられない。経済を無視した思考で生活することはもはやありえない。

 1930年代の世界恐慌と今の景気後退との最大の違いは国際協調の有無である。経済が国際的な問題となったのは第二次世界大戦後のことである。戦前、金本位制のため、経済は国内問題として扱われている。世界恐慌の際、国際協調の動きが生まれないどころか、主要国は保護主義に走り、ブロック経済体制を敷いている。これが世界大戦の主要な原因の一つであることは否定できず、戦後は、経済を国際的問題として捉えることが各国間のコンセンサスとなる。自由貿易と国際協調を基調とする世界的な経済秩序の構築が進められ、ソ連の解体以後は、それがグローバル・スタンダードとして広く認められる。ところが、今回の危機でも保護主義の誘惑にかられている諸国もすでに現われている。ロシアや中国、アメリカ、インド、フランスなどは、程度の差こそあれ、自国産業の保護と外国製品の排除に動いている。09年六月に実施されたEUの議会選挙でも、50%に満たない低投票率であるけれども、移民排斥を掲げる極右政党が議席数を伸ばしている。

 相互依存を強めている現在の国際社会において、ナショナリズムに囚われれると、その国が大きな経済的損失を被ることはしばしば起きている。リーマン・ショックによるアイスランドの金融破綻にもそれを見ることができる。アイスランドは、人口30万人程度の小国でありながら、2007年の人間開発指数のランキングにおいて、トップとなるほど豊かで住みやすい国だったが、915以降、欧州で最も深刻な経済危機に陥っている。アイスランドは漁業保護を主な目的に、EUへの加盟を見送り続けてきけれども、それが裏目に出る。アイスランドは金融緩和をてこにして経済発展を進めている。銀行が欧州各地に進出し、地元の金融機関より高い利息で預金を集め、外貨を獲得して、そこから借り出した資金で企業は海外に飛び出していく。しかし、通貨規模に対して、金融機関が肥大しすぎてしまう。信用収縮がこのいびつな実体を直撃する。通貨クローナは暴落し、銀行は国有化、IMF100億ドルの緊急支援を要請、ロシアから40億ユーロの融資を受ける。独立志向のナションリズムを抑制し、EUに入っていれば、ここまでの壊滅的打撃にはならなかっただろう。加盟の必要性は、経済が好調のときからエコノミストたちより主張されてきた意見である。グローバル時代に、国家の枠組みに固執する政治の非力さは露呈したケースである。

 過去20年間、戦争が起きる度に、個性的なメディアをクローズアップさせている。湾岸戦争はCNN、アフガン戦争はアルジャジーラ、イラク戦争はYou Tubeをそれぞれ世界にその名を浸透させる契機となっている。戦争ではないが、今回の経済危機はブルームバーグを一般にも知らしめている。

 20世紀後半以降は「経済の時代」と呼ぶことができる。けれども、日本において、いわゆる純文学を見る限り、そうした認識は認められない。「政治と文学」は日本近代文学における重要なテーマの一つである。当初は共産党との関係を指していたが、フランス実存主義文学の流行と共に、「アンガージュマン」も含まれるようになっている。その後、反核アピールや湾岸戦争反対アピールといった国際政治に対する意見表明、関西大震災など自然災害へのボランティア活動、首長や議員、地方自治体ならびに政府の各種委員会の一員としての政治参加等文学者の政治とのかかわりは、その質はともかく、広範囲に拡大している。しかし、その一方で、「経済と文学」をめぐる議論が文学者の間で沸騰したことはほとんどない。「政治と文学」において、少なからずマルクス主義の検討が図られたものの、それはイデオロギーの図式的な妥当性を確認するにとどまり、経済についての議論の深まりをもたらすものではない。プロレタリア文学は労働者の置かれた過酷な現状を告発し、資本主義体制を糾弾しているが、むしろ、それは「政治と文学」のヴァリエーションである。

 戦前、ドメスティックな問題と広く考えられていた事情を考慮するなら、経済を正面に見据えた小説がほとんどないことは理解できる。この時期、数少ない経済を扱った小説の代表は、谷崎潤一郎の『小さな王国』であろう。

 戦後、経済が国際問題として認知されただけでなく、日本社会の官民共通の目標は、少なくとも政治の季節が終わった1960年以降、経済成長である。ところが、いわゆる純文学には経済を活動を舞台とした小説があまり生まれていない。石牟礼道子や中上健次など経済成長の矛盾やひずみなどを鋭く抉り出す使命感に溢れた作家はいたものの、彼らは少数派である。新しいビジネスやサーヴィス、商品、テクノロジーが登場すると、基本原理もろくに調べないまま、それに飛びつき、作品に登場させる小説家は少なくない。また、社会変化を若者の生活を通じて描くのは新人作家の常套手段である。しかし、それは経済を真正面から扱っているのではなく、小道具大道具として用いているにすぎない。村上龍が、ITバブルで盛り上がる1998年から2000年にかけて、『文藝春秋』誌上で連載した『希望の国のエクソダス』は、そのレアなケースである。この作品だけでなく、村上龍は、いささか山師的ではあるものの、経済を小説に取り上げる数少ない芥川賞作家である。

 言うまでもなく、どんな小説であっても、登場人物は暮らしを営んでいる以上、そこに経済状況が反映されている。批評家がその意味を読みとる試みは、実際、従来からなされている。しかし、これは小説が経済を直接的に扱っていないために、続いている伝統である。1960年代後半に、完全雇用が達成し、基礎的な豊かさ・平等が広く普及する。その反面、従来、社会的問題だった貧困が個人的な失敗へと見なされるようになり、人々の間に無関心さが広がる。また、不平等は政治的・経済的・社会的弱者、すなわちマイノリティに現われやすい。こうした少数者の問題を掘り下げ、社会的な共感を呼び起こすことは文学者の責務でもある。しかし、しばしばいわゆる純文学系の小説はそうした広がりを持っていない。主人公が孤独であったり、貧乏であったりすることは伝わってきても、社会の他の同じような人たちとどう違うのかがわからない。

 非正規雇用労働者を主人公に据えても、人物造形の彫りが甘く、その必然性を感じられない作品も少なくない。最近そういう人たちを見かけるから、とりあえず出してみたという程度の場合さえある。それは、一般的な枠組みにくくられることへの抵抗と言うよりも、浅はかな思いつきに過ぎない。ところが、こうした作品に近代小説を超える試みを見出す論者がいる。しかし、それは近代小説の意義を理解していない意見にすぎない。

 日本近代文学は近代小説の確立を目標に置いている。これは「市民の文学」であり、近代社会を再現する。その意味で、真の主役は近代社会である。代表的な作家としてダニエル・デフォーやヘンリー・フィールディング、ヘンリー・ジェイムズ、ジェイン・オースティンなどが挙げられる。近代の理念は自由・平等・友愛であり、近代小説はそれを踏まえている。登場人物は「普通の人々」(ロバート・レッドフォード)、すなわち等身大で、その性格・心理・志向は社会が表われたものである。社会的仮面、すなわちペルソナを被った普通の人々あるいはほんとうの人間を描写しようとすることから、しばしば因習的とならざるをえなくなる。しかし、反面、登場人物の心理に自由にかつ深く立ち入ることができ、それによって読者は平凡でどこにでもいそうな主人公に共感することも少なくない。ただ、近代小説は、その内面描写に傾倒しすぎると、精神的深みが平凡な人たちの日常的な生活の中にこそあるという逆説を導いてしまう。そういうパロディも、当然、生まれている。また、小説の傾向は外向的・個人的であるため、作者には客観的、すなわち公正たらんとする態度でとり扱うことが要求される。エミール・ゾラは、それを実現しようと、自然科学を援用している。この短編形式は、フライ自身による命名ではないけれども、一般的には「スケッチ(Sketch)」と呼ばれている。近代小説は、本来、社会を浮き彫りにするために、書かれる。

 バブル経済当時、流行していたのは村上春樹や吉本ばなななど自閉的な作品である。外界への関心は乏しく、経済を扱うどころか、自分の殻に閉じこもってしまっている。バブル経済に踊らなかったとしても、それがはじけたとき、その被害を被ることになる。かぶりを振ったところで、見逃されるはずもない。そんな経済の常識さえ理解していないような振る舞いをしている。いわゆる純文学の小説家はセンセーショナルな犯罪が起きると、それにはすぐ飛びつくくせに、大きな経済問題が発生しても、とり扱おうとしない。経済問題は。関心の有無にかかわらず、世界規模の人々に直接的・間接的に被害が及ぶ。バブル経済を描いた文学作品は何かと尋ねられても、すぐには思い浮かばない。なるほど、経済は変化が早く、作品を発表した頃に構想自体が古びてしまう危険性もあり、執筆を尻込みする気持ちもわからないではない。投資ファンドを舞台にした真山仁の課経済小説『ハゲタカ』が映画化されたけれども、公開時には世界的な景気後退によってこの業種が崩壊寸前に追いこまれている。ところが、真っ只中に書かれた作品だけでなく、過ぎ去った後にそれを振り返ったものさえ答えることができない。むしろ、本多俊之のソプラノ・サックスが響き渡る伊丹十三監督の『マルサの女』シリーズ(198788)を思い起こしてしまうだろう。

 日本は、1890年から1990年の間に、一人当たりのGDP842ドルから16144ドルにまでのほぼ20倍に上昇し、年平均成長率は3%である。一方、アメリカは、1870年から1990年までの間に、2244ドルから18258ドルと9倍に伸び、成長率は1.76%である。日本の経済成長が非常に大きいのがわかる。しかし、そこには激しい変動がある。戦後の経済成長だけを振り返ってみても、いわゆる純文学が経済と向き合ってこなかったがあまりにも自閉的だったと残念でならない。

 

4 戦後の経済成長

 1945815日、国民は玉音放送によりポツダム宣言を日本が受諾したことを知り、92日、GHQによる占領統治が始まる。

 賀川昭夫は、『現代経済学』において、戦後の経変動の軌跡を次のように区分している。

 

 

期間

実質平均年成長率

戦後復興期

194554

9

高度経済成長期

195573

9.2%

安定成長期

197485

4.0%

バブル経済期

198691

4.9%

平成不況期

1992

1.2%

 

 日本はこの戦争を通じて近隣アジアならびに太平洋地域に多大な破壊をもたらしたが、日本自身も大きな損害を被っている。戦死者185万人、負傷・行方不明者67万人、空襲などにより離散者875万人に上る。また、国富は40%が喪失し、1935年の水準にまで下落、原材料ストックに至っては、4分の1が失われ、1935年の80%にまで落ちこんでいる。さらに、鉱工業生産力は最盛期のわずか10%しかない。

 このような状況に加えて、膨大な数の失業者の発生が見こまれている。敗戦と共に、軍人360万人と軍需産業従事者160万人が職を失い、外地から650万人が着の身着のままで引揚げてくる。彼らも食っていくために、何としてでも仕事にありつかねばならない。

 けれども、敗戦国日本は経済制裁を受けている状態であり、原材料と燃料は国内だけで調達しなければならず、製品も内需頼みという有様である。

 しかも、1944年と45年は米が不作で、例年の60%しか収穫できていない。農家も自分たちが生きてためにと米をなかなか外には出さない。都市の食糧不足は深刻化し、1946519日、戦後初のメーデーでは腹をすかせた労働者の怒りが爆発する。米よこせとデモ行進し、後に「食糧メーデー」と呼ばれることになる。このままでは秩序の維持は不可能であると危機感を覚えた最高司令官ダグラス・マッカーサーは、「暴民デモ許さず」の声明を出しながらも、ワシントンにさらなる食糧援助をするか増派するかどっちか選んでくれと打電する。当局は、賢明にも、前者を選択する。この小麦の援助は朝鮮戦争により米国内でも食糧が不足したときまで続く。

 1947年、後に経済白書と呼ばれる年次経済報告は、国家財政は赤字、代表的企業も赤字、国民の家計も赤字であり、日本経済は「縮小再生産」の道を辿りつつ、「インフレ」の危機に襲われていると切羽詰った現状を明らかにしている。

 インフレは、庶民が給与だけでは生活できないレベルにまで進行する。旧制中学卒の公務員の初任給が500円である。ところが、肉うどんの価格が5円、卵が6円であり、それぞれが月給のほぼ100分の1に相当する。かりに両者を300倍すると、前者が15万円であるのに対し、後者は1500円と1800円である。今日では、1800円の卵を探すのは至難の業である。また、その頃、後の三島由紀夫夫人杉山瑤子と一緒に疎開していた女性が結婚することになったが、その式場は日本橋三越である。売るものがないので、昼は式場、夜は進駐軍のダンス・パーティーの会場として貸し出されている。ハネムーンは熱海だったが、米持参である。手ぶらでは、旅館にも泊まれない。こうしたインフレの下、人々はいわゆる筍生活を余儀なくされている。

 194812月、GHQは日本経済自立のために、経済安定9原則を提示する。それは、均衡予算・徴税強化・資金貸出制限・賃金安定・物価統制・貿易改善・物資割当改善・増産・食糧出荷改善の9項目であり、これを遵守させる目的で、総司令部はデトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジを招請して具体的な政策立案に当たらせる。彼は赤字歳出を許さないと強硬な姿勢で、1ドル=360円の単一為替レートを設定、1949年度の予算は超緊縮均衡予算となる。それまでは物品別に異なる為替レートが用いられている。このドッジ・ラインにより、インフレは抑制されたものの、デフレが始まり、中小企業は倒産し、失業者が街に溢れ、赤旗が各地で林立する。革命の雰囲気さえ漂っている。

 そんな1950年、朝鮮戦争が勃発する。それに伴い、在日米軍を主体とする国連軍が日本に大量の物資・サーヴィスを発注する。1952年までの3年間で10億ドルもの特別需要が生まれ、ドッジ・ラインで青息吐息の日本経済は息を吹き返す。この特需で最も重要なのは、事実上、経済封鎖が解除され、貿易が復活したという点である。これにより、縮小再生産から拡大再生産の道へと歩み始めることになる。

 この朝鮮戦争を始めとして、戦後の節目となる出来事を挙げるとしたら、それらは次のようになろう。

 

 

分岐点

1950

朝鮮戦争

1965

昭和40年不況

1971

ニクソン・ショック

1973

第一次オイル・ショック(第4次中東戦争)

1979

第二次オイル・ショック(イラン・イスラム革命)

1985

プラザ合意

1997

金融危機

2008

リーマン・ショック

 

 1956年、通産省は経済白書に「もはや戦後ではない」と記す。この名文句は、日本経済は戦後復興期から自立的な経済成長の時期に移行しなくてはならないという決意表明である。ここから高度経済成長が始まる。

 高度経済成長は、要約するならば、旺盛な設備投資による経済成長の時代である。企業は、幸先がいいとなれば、イノベーションを活発に行い始める。まず、現場に新しい機械を導入し、それで儲かったなら、次には工場を建て替える。さらに売り上げが伸びたら、工場群を新設する。設備投資によって国民所得が上昇し、それを消費に使う。国民所得は設備投資に依存し、消費は遅れて増加する。この経済成長において、設備投資が先であって、消費はその後である。設備投資が経済を引っ張り、消費が後押しする。

 この経済成長期に普及するのがいわゆる「カンバン方式」である。在庫をできる限り、つくらない。このトヨティズムはトヨタにとどまらず、鉄鋼や機械部品など関連産業にも波及する。日本は在庫を最小限にする方式に支えられた高品質低価格の商品で世界の市場を席巻する。しかし、この在庫に対する神経質さは、新自由主義が支配的なると、希薄になり、リーマン・ショックの際に、本家のトヨタの経営を脅かすことになる。

 戦後の代表的な好況期には次のようなものがある。

 

 

期間

神武景気

195411月〜576月(31ヶ月)

岩戸景気

19586月〜6112月(42ヶ月)

オリンピック景気

196210月〜6410(24ヶ月)

いざなぎ景気

196510月〜707(57ヶ月)

バブル景気

198612月〜912月(51ヶ月)

いざなみ景気

20022月〜0710(69ヶ月)

 

 高度経済成長期には、四つの大きな景気があり、神武景気・岩戸景気・オリンピック景気・いざなぎ景気とそれぞれ呼ばれている。いずれも日銀が公定歩合を引き上げることで意図的に終息させているが、前の三つといざなぎ景気では理由が異なっている。

 神武景気からオリンピック景気までの場合、政府・日銀の政策判断は国際収支の悪化を懸念材料としている。景気がよくなれば、原材料や機械の購入により輸入が増加する。ところが、国際競争力のある製品がまだ十分でなかったため、外貨準備高が少なく、国際収支の赤字が増加する。この状態が続くと、日本の支払能力が疑われ、円の信用度が下がる危険性が増す。輸出先も通貨が切り下げられそうならば、それを待ってから買う方が得であるから、日本製品は売れなくなり、貿易赤字はさらに悪化する。この悪循環を断ち切るために、日銀は公定歩合を引き上げ、過熱した景気を冷ます。すると、輸入は激減し、また企業も在庫を減らすために、値引きして製品を輸出するので、国際収支は改善していく。こういう過程を注意しながら、日銀は、頃合いを見計らって、公定歩合を再び引き下げ、経済はまた好況へと向かう。昭和30年代は、このようにして好不況を繰り返している。

 1965年は節目の年である。日本は、明治維新以来の悲願だった国際収支の黒字の常態化を達成する。外貨の流出を気にする必要がなくなり、経済政策の中心が金融政策から財政政策へと移行する。この年から海外渡航が原則自由化され、Made in Japanだけでなく、人も海外に飛び出していく。

 196410月、東京オリンピックが終了すると、政府・日銀は金融の引き締めを図る。ところが、想定外の大型倒産が相次ぐ。この年、サンウェーブと日本特殊鋼がつぶれ、翌年には山陽特殊製鋼が当時としては史上最悪の負債総額500億円で倒産する。大幅赤字に転落して、取り付け騒ぎが起きた山一證券は、田中角栄蔵相の指導力による日銀特融で何とか生きながらえる。

 実は、この間、慌てた日銀は公定歩合を1%以上も下げたのだが、効果はほとんどなく、結局、657月に、戦後初の建設国債、いわゆる赤字国債の発行を決断する。これを受け、株価は上昇に転じ、不況から脱却する。こうして経済政策の主体が金融から財政へと変わる。

 金融政策と財政政策は、経済政策としては同じよう効果を発揮する。ただし、財政支出の増大が民間投資を圧迫するクラウディングアウトが完全に生じているときには、財政政策は有効ではない。金融政策を選択しなければならない。一方、将来に対して悲観的見通しが支配知る場合、投資や消費が抑制されるため、金融政策ではなく、財政政策の方が効力を示す。

 経済政策には、認知の遅れ・実行の遅れ・効果の遅れという三つの遅れが伴う。経済状況が変化しても、指標として表面化するまでに時間がかかるなどして政策当局が認識されるのに遅れが生じる。政策発動の必要性が認知されると、通常、それを実行するまでには政府・与党内部での調整や国会での議論、関係機関との折衷などが待っている。政策が実行されたとしても、実際に効果が出るまでにはしばらく時間がかかる。金融政策は実行の遅れは少ないが、効果の遅れは大きいとされているのに対し、財政政策はその逆である。皮肉なことに、財政政策が主力となった後の70年代、永田町は保革伯仲の時代に突入している。

 いざなぎ景気はこのような状況から、これまでの景気以上の長期に続く。196768年頃に、日本は完全雇用を達成する。68年の日米の学生運動の間には、社会的・経済的背景の点で大きな隔たりがある。しかし、公害とインフレという二つの問題が深刻化する。日銀は戦後初めてインフレ抑制のために、公定歩合の引き上げに踏み切り、いざなぎ景気は幕を閉じる。

 高度経済成長期は1970年をすぎてからも続くが、実質的に60年代で終わっている。1970年代、日本を含めた先進諸国は世界的な同時ショックを三度も味わう。日本経済は、安い原油と実力以上に低く抑えられた円の対ドル為替レートを背景に、奇跡とまで称された経済成長を達成してきたが、その三度の危機によって両輪が奪われてしまう。

 第2次世界大戦後、ドルは世界における基軸通貨、すなわち公共財としての地位を維持してきたが、ヨーロッパ各国や日本が経済復興を遂げ、アメリカは膨大な軍事支出・援助支出を続け、その上、1950年代後半から国際収支の赤字幅が次第に拡大し始め、ドルに対する信任がゆらいでいく。1971815日、突如、リチャード・ニクソン大統領はドルと金との交換を停止すると表明する。事実上、このときに固定相場制が崩壊したのだが、各国の当局者は対応に追われ、紆余曲折をたどる。しかし、とうとう、732月、主要国がすでに全面的な変動相場制に移行していた現状に、日本も追随する。

 ニクソン・ショックにより、急激な円高ドル安が進み、輸出関連産業が大打撃を受け、日本経済は不況に陥る。1970年代を通してドル安基調であり、日本企業はそれに対処するため、生産性の向上とイノベーションに励み続ける。

 1973106日、度4次中東戦争が勃発すると、OPECは原油の公示価格の大幅な値上げと減産、イスラエル支援諸国への禁輸を発表する。ヨム・キプール戦争は1026日にイスラエル側の勝利で終決したが、減産カルテルは続き、翌年の1月には原油価格を2倍にすると産油諸国は決定する。

 おりしも、田中角栄首相が日本列島改造計画をぶち上げ、不動産や建築資材等への投機のため、インフレが急速に進んでいたときである。原油価格の高騰はインフレをさらに加速させ、消費者物価指数は、74年、23%も上昇してしまう。福田赳夫蔵相が命名した「狂乱物価」抑制のため、日銀は公定歩合を引き上げる。企業の設備投資は冷えこみ、同年、マイナス1.2%と戦後初めてマイナス成長を経験する。

 生産の減少や失業者数の増加などの経済活動の停滞と物価の上昇が併存する従来と違うタイプの不況に陥る。この状態は「スタグフレーション(Stagflation)」とめいめいされるが、それは「停滞」を意味する「スタグネーション(Stagnation)」と「インフレーション(Inflation)」を合成した造語である。

 スタグフレーションには、社会の石油への依存が進んだ結果、生まれた現象だとも言える。石油というのは、労働や資本と同様の生産要素であると同時に、最終財という二面性がある。石油はプラスチックや電力となって間接的に購買されたり、自動車や暖房の燃料として直接的に購入されたりする。原油価格の高騰は。限界費用を上げるため、総供給曲線を上昇させ、所得効果を通じて総需要曲線を下降させる。原油価格の急激な高騰は景気後退とインフレを同時に進行させてしまう。

 スタグフレーションへ対応するためには、政府が総需要を増やすような金融・財政索をとることは好ましくない。このタイプの不況では、失業率の増加と物価上昇が起こる。生産量を元の水準に戻すことができたとしても、物価も上昇してしまう。むしろ、生産性の向上を推進する技能訓練・教育を推奨する公共政策が効果的である。「省エネ」はその代表例である。

 日本政府は奇策ではなく、この総需要の抑制という手堅く、オーソドックスな政策をとる。その結果、日本経済は5年ほどで回復している。

 1979年、イランでイスラム革命が起き、同国からの原油輸出が中断される。このときも、日本政府・日銀は先の危機とほぼ同様の総需要の抑制という対応をとる。欧米諸国と違い、イランと友好的な関係を続けた外交努力も認められるが、これにより、日本の傷は浅くすんでいる。この回復の速さが、80年代に日本的経営が賞賛され、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と讃えられた一因であったことは見逃せない。

 他方、アメリカは経済統制に走る。74年、ニクソン大統領はガソリン節約を目的とした自動車の最高速度を55mphに制限する法案に署名する。彼の辞任後、石油価格を始めとして統制は多岐に亘る。原油価格の高騰に伴い、物価が急騰し、アメリカの国内産業はパニックに陥る。燃費の悪い大型車に偏重してきたビッグ3は、日本の小型車に市場を奪われ、製造業は生産性が悪く、急速に国際競争力を失い、失業率は急激に上昇する。ドワイト・アイゼンハワー大統領から国防長官に指名されたチャールズ・ウィルソンGM最高経営責任者は、1952年、その資格を審査する議会の公聴会で、「ゼネラル・モーターズにとってよいことはこの国にとってもよいことです(What's good for General Motors is good for the country)」と証言したが、両者の利益は乖離し始める。デイビッド・ハルバースタムは、『覇者の驕り』の中で、「米自動車産業がモノを生産することから利益ばかりを追うことに変わっていった」と批判している。多くの地方自治体の財政が逼迫し、78年、クリーブランドが大恐慌以来都市として初めて破産する。

 辞任したニクソンに代わってジェラルド・フォードが大統領に就任したが、選挙で選ばれていなかったため、指導力を発揮できず、有効な経済政策を打ち出せない。インフレ抑制には熱心だったけれども、1975年初め、失業率は大恐慌以来最高の9%弱に達している。にもかかわらず、この共和党政権は雇用創出を高所得者層の減税により購買力の向上に期待している。次のジミー・カーター大統領は、環境対策に熱心でありつつも、金融界の望む政策をとり、規制緩和によって景気浮揚を試みている。今では忘れられているが、当時、彼は、グローバー・クリーブランド以来、最も共和党に近い民主党大統領と見なされている。しかし、イラン革命により、彼の経済・外交政策が大打撃を受け、二期目を務めることなく、ホワイトハウスを去る羽目になる。その後、カーターは最も偉大な元大統領として精力的に世界を飛び回っている。

 カーターに代わって就任したロナルド・レーガン大統領は、ポール・ボルカーFRB議長と共に、インフレ抑制を優先し、金融引き締め、ドル安基調を是正すべく、高金利政策に方針転換する。このドル高円安を背景に、日本からアメリカ市場に向けて自動車・家電製品が続々と輸出される。しかし、連邦政府は、高金利政策と膨大な軍事費により、財政赤字と貿易赤字、いわゆる「双子の赤字(Twin deficit)」に陥る。85年初めにはアメリカの貿易赤字が放置できないほど深刻化してしまう。

 レーガン政権は対外的に無茶な要求を繰り返している。1980年代、途上国が債務危機に陥ったとき、アメリカはIMFにその諸国ではなく、自国の銀行を救済させている。貸し付けたアメリカの品行が危なくなれば、世界経済に重大な悪影響を及ぼすというのがその理由である。また、日本には、自由防衛期待性を建前として維持するために、自動車の「自主的」な輸出規制をさせている。

 19859月、ニューヨークのプラザ・ホテルで、各国が協調してドル安に誘導する合意が結ばれる。日米の金融当局は1ドル=240円の為替レートを200円程度に下げたい思惑だったが、円高ドル安が急速に進み、87年には、1ドル=140円台に突入する。

 ドルが世界経済を牽引する時代は、ニクソン・ショックですでに終わっている。今やドルを世界経済が支えなければならない。ドルの信用度が凋落したとしても、北米市場は、言うまでもなく、世界最大規模であり、その消費が世界経済に与える影響は大きい。

 日銀は、この円高を抑えるべく、87年、公定歩合を2.5%にまで思いきりよく下げる。この金融緩和により、バブル景気が本格化し、株価と地価が高騰する。株価は、198210月から上昇基調が続いていたが、86年春より急騰し、89年末に4年前の約3倍、38915円に達する。一方、地価は、83年頃より東京都心の商業地が上昇に向かい、その後、東京圏から大都市圏へとこの動きは拡大し、さらに全国へと及ぶ。東京・名古屋・大阪の三大都市圏(の商業地の公示地価は、86年から跳ね上がり、91年には3倍にまで上昇する。

 実は、バブル経済は、株価と地価(住宅価格)が3倍を目指して急騰する現象である。 今回の金融危機にも、同様の動向が見られる。アメリカの株価はITバブルの始まった95年から07年までに3倍を超え、住宅価格は97年より06年までに3倍に到達している。

 日本では「地価」、アメリカにおいては「住宅価格」としてデータを集計・公表するのは、不動産に関する民法上の認識の違いによる。日本の場合、地主と住宅の所有者が異なっている物件も少なくないように、土地と住宅を別個に考える。この発想は、先進国の中では例外的である。他方、アメリカにおいては、住宅の建てられれていない土地の取引もあるが、上部構造と下部構造がセットで扱われるのが一般的である。不動産をめぐる認識は、基本的人権が所有権から始まったことを考えれば、その国における近代化を考察する際の重要なテーマの一つとなりうる。

 バブルの原因は何かという問いは経済学者の間で盛んに議論され、さまざまな説が提示されている。ただ、大幅な金融緩和によるカネ余りがバブルを引き起こす一因であることは確かであろう。準大手の投資銀行ソロモン・ブラザーズの元副社長ヘンリー・カウフマンによれば、バブルを防ぐには企業・家計・金融部門の負債残高の対名目GDP比率が急増しないようにつねに監視・規制することが不可欠である。日本のバブル期において、企業と家計の負債残高の名目GDPに対する比率は、85年度の264%から89年度には319%に50ポイントも上昇している。アメリカでも、同様に、負債残高の名目GDP比率は97年から07年までに50ポイント増えている。さらに、金融部門の負債残高の名目GDP比率も日米ともに上昇している。日本の経験を踏まえるならば、915を迎える前に、連邦政府とFRBはもう少し打つ手はあったはずである。

 カウフマンは1980年代前半にすでに今回の金融危機の到来を危惧している。準大手のソロモン・ブラザーズは、おりからの債権の自由化を受けて、「モーゲージ債」と呼ばれる金融の新商品を販売する。これは各種の債権を投資銀行が購入し、さまざまな方法を用いて新しい債権へと組み直したもので、後に複雑化、すなわち不可視化する。従来、投資銀行は仲介業務を主な事業内容としてきたが、この「自己勘定」と呼ばれるビジネスは初めての独自のモデルとウォール街で脚光を浴びる。しかし、自己資本に乏しい投資銀行はその資金を外部から調達しなければならず、レバレッジに依存することとなる。それに対し、ソロモンの副社長ヘンリー・カウフマンは、金融はあくまでもバイプレーヤーに徹するべきだという信念に基づき、このハイリスクな手法は恐ろしい危機を招くと取締役会等で警告する。けれども、同調する声は一切なく、彼はその地位を追われる。

 新たな金融商品を考案したとソロモンのレーダーたちは他の投資銀行から高額な報酬でヘッド・ハンティングされ、それを防ぐために、ソロモンも巨額なボーナスを提示し、他者もツイヅいる。投資銀行業界はサラリー・キャップのないフリーエージェント制へとなし崩しに突入したようなもので、売り上げをほとんどこの人件費に費やす有様となってしまう。とうとう自社株を賞与として提供することも常態化する。金危機後、ウォール街は賃金の硬直性という現代経済学における基本的な課題など人事だといわんばかり態度を示し、全米から怒りをかうことになる。

 80年代後半、企業は余ったカネを本業の設備投資よりも、不動産や証券の購入に回している。金融機関もそれを積極的に推奨する。財テクをしない経営者はバカだと思われる雰囲気が巷に漂う。バブル前夜に殺害された豊田商事の永野一男会長は、産業をヒエラルキーとして捉え、いわゆる実業よりも虚業の方が高級だと考えている。彼によれば、製造業が最も下位に属し、次が商品を流通させる商社、その上が銀行や保険会社、最高位に位置づけられるのが投機だというわけだ。経営者は永野理論通りに邁進する、

 しかし、バブル経済では、株価と地価の高騰はあっても、消費者物価はさほど上昇していない。おまけに、年平均経済成長率にしても、4.9%であり、安定成長期をわずか1%弱上回っているにすぎない。加えて、本業以外には無謀なまでに手を伸ばしたものの、次世代を牽引する産業も生まれてもいない。はじけた途端、あれもこれもと拡大方針をとった企業は設備・雇用・債務が共に過剰になってしまう。こうしたデータを見るだけでも、健全な設備投資の経済成長に対する影響力の大きさを改めて実感するのみならず、バブルの空疎さがわかる。

 いつの時代・社会でも、バブルには過信がつきものである。狂信者を冷静にさせるのは難しい。もっとも、バブルに踊りながらも、こんな馬鹿騒ぎがいつまでも続くはずはないと感じていたものも少なくなかっただろう。崩壊に向かっていく途上、おかしいと思いながらも、この生活を失いたくないから疑問をさしはさまない。そのときが遠くないとしても、もう少しだけパーティを楽しんでいたい。

 1989年から日銀は公定歩合を段階的に引き上げていく。1年ほどの間に2.5%から6%にまで公定歩合が上昇した急激な金融引き締め政策は、バブルを崩壊させる。92年の成長率は1.0%930.3%940.6%と低迷し、日本経済は「失われた10年」とも呼ばれる打長期不況に沈む。

 92年の宮澤喜一内閣から20001年の小泉純一郎内閣成立までの間に、政府は180兆円もの財政出動を実施するが、経済状況は思うようには改善しない。とうとう、小渕恵三首相は、1994月、総額6194億円に及ぶ地域振興券を配布して、消費による景気浮揚を狙ったが、多くが貯蓄に回り、まったくの失敗に終わる。投資は将来を見越して行うものであり、消費もそれを後追いして増える。投資が伸びないのは将来に不安があるからであり、それを見ずに消費を刺激しても、持続性はない。おまけに、199394年頃からデフレへと突入し、その後、デフレ・スパイラルに陥る。デフレからの脱却が90年代半ばからの重要な経済問題と位置づけられるが、なかなか解決できない。

 小泉内閣成立前後から、いわゆる「小さな政府」論、すなわち日本は大きな政府から小さな政府を目指さなければならないという議論が激しく展開されたが、それはしばしば短絡的である。実際には、政府支出を見る限り、1970年代に入るまでは日本は一貫して小さな政府である。一般会計における政府支出の対GDP比は、1970年代後半に上昇したものの、それ以前は10%程度であり、80年代でも10%台である。政府支出が急増したのは90年代からであり、2001年には38%にまで拡大している。特に、公共投資の伸びが著しく、国際的に比較しても、高水準である。ただし、この時点でさえ、一般政府総支出が増加傾向であとしても、OECD諸国の中では低い方である。また、他の先進諸国の平均と比べて、最終消費支出と社会保障移転の割合が小さく、総資本形成、すなわち公共投資が大きい。なされえるべきは小さな政府論だったのかということは、依然として、検証されなければならないだろう。

 長期停滞に対処するため、企業は新卒採用を絞りこみ、就職氷河期が到来する。正社員を解雇したり、賃金カットしたりするのは難しい。そこで、採用抑制による固定費削減を実施している。こうした環境から、いわゆるフリーターが多様な働き方の一つとして世間でも認知される。事実、日本企業の新卒偏重は是正すべき習慣であったが、この採用抑制は中長期的展望を欠いており、企業や労働者、社会全体にとっても大きな損害として後に跳ね返ってくる。企業内のいびつな年齢構成は、団塊世代の大量退職の時期に、社の宝とも言うべきノウハウやスキルの継承がうまくなされず、生産性や品質の低下を招いてしまう。いくら働いても雀の涙ほどの給与の現状では、消費が伸びず、デフレが継続し、出生率が上向くはずもない。しかも、1998年以来、自殺者は3万人を超え、その中には経済問題が主因と思われるケースも多く含まれる。親が低収入のために育てられなかったり、虐待したりするなどの理由で施設に預けられる子供の数も急増している。人々の心はすさみ、寒々とした雰囲気が社会を覆う。

 バブルがはじけてしばらくすると、金融機関を含めた各企業の無責任さと強欲さが次々と明らかになり、また、膨大な不良資産を抱えていることも判明する。19961月に開会された第136回国会は、住宅金融専門会社の不良債権処理のために6850億円の公的資金の投入をめぐって第紛糾する。経営破綻した住専の不良債権処理に税金を使うことに世論が反発し、それを受けて野党がピケをはり、国会審議をとめる。これは、後に「住専国会」と呼ばれることになる。

 こうしたバブルの企業経営はずさん以外の何物でもなかったが、形式的な完璧さが実態を伴っていないとどうなるかは、エンロンの不正経理事件がよく物語っている。もしそれが字義通り働いていれば、一切の不正など起きようもなかったけれども、エンロンのシステムはまったく機能していなかったことが発覚している。経済では、性悪説に基づかねばならず、独立性が最も不正を防止できる。

 199596年に経済の好転の兆しが見えてきたため、9741日、橋本龍太郎内閣は財政の健全化を果たすために、消費税率を3%から5%に引き上げ、2兆円の所得税減税を打ち切り、社会保険料も値上げするなどの約9兆円もの大増税を実施する。しかし、これで景気悪化が急速にぶり返す。北海道拓殖銀行や山一證券、日本債権信用銀行、日本長期信用銀行、日産生命、三洋証券など金融機関が倒産・廃業に追い込まれ、日本発の世界金融危機が起きるのではないかと巷で噂される。

 都市銀行の再編が進む過程で、メイン・バンク制が崩れ、大手企業は銀行からの融資よりも、市場から資金を調達するようになる。こうした変化は企業の情報開示を促したことは認められるが、目先の利益に走る短期業績主義を蔓延させる。儲けは社員の給料ではなく、株主の配当や内部留保金へと優先される。それに応える役員は高額な報酬・退職金を手にする。05年に会社法も改正され、会社は株主のものと規定する。

 けれども、そのイデオロギーを日本に吹きこんだアメリカでは、リーマン・ショック以来。それが再考を促されている。数多くの企業が公的支援を受けているが、それは元々は税金である。また、再建されるクライスラーの株主構成は労組が55%を占め、GMでは労組が17%、連邦政府が60%を保有する。政府に財源は税金であり、納税者が間接的にGMを所有していることになる。これは大陸ヨーロッパでよく見られるステークホルダー資本主義である。

 90年代に入って、大型合併が日本の経済界で相次いでいる。大きくなれば、スケール・メリットを生かせるし、外資による買収防衛にもなる。しかし、大型企業の登場は必ずしも効率性の向上につながっていない。三越と伊勢丹の合併は、お互いの企業風土の違いが大きく、スケール・メリットなどない。おまけに、いざメガ化すると、大きすぎてつぶせないと公的支援が必要となり、国家財政を圧迫する。

 19992月、日銀は、短期金利の指標である無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15%に誘導すると発表し、いわゆるゼロ金利政策を実施する。ところが、民間投資は一向に回復しない。いくら金融を緩和しても、景気が上向かないこの時期、日本は「流動性の罠」にはまっていたと考えられる。不況に陥り、将来の見通しも暗い状況では、中央銀行が多少利子率を下げても、企業は設備投資に回さない。この場合、利子率が下方硬直するだけで、金融政策は有効ではない。これが「流動性の罠」と呼ばれる状態である。対策としては効果的な財政政策が必要であるが、日本政府の無駄な公共事業の悪癖は直らない。とにかく景気対策を求めるために、財政規律が緩み、有効性を慎重に審査することもなく、カネがばらまかれる。これでは経済成長床とか、投入した税金の回収さえままならない。

 2001年に発足した小泉純一郎政権は高い支持率を背景に、「構造改革」と総称される政策を実施する。すでに傾いていた新自由主義の方向へ妄信的と呼べるほど思いきって進めていく。政府による規制を野放図なまでに緩和し、道路公団や郵政三事業を民営化する。

 2001年から続くゼロ金利政策を始めとする金融緩和、ならびに2004年以降の円安、北米や欧州、新興諸国の需要拡大により、日本の輸出関連産業は売り上げを伸ばし、20022月から好況に入る。もっとも、その間、製造業は生産拠点を人件費の安い中国や東南アジアへと移し、国内でも、製造業にまで適用範囲が広げられた派遣法の2004年の改正による非正規雇用層に拡大され、雇用の調整弁を整備している。企業がいくら儲かっても、労働者の賃金の上昇にはつながらず、株主への配当や役員高額報酬、内部留保金に消える。企業買収も恐い。それに備えなければならない。なるほど、自由貿易体制が日本にとって有益であり、内需に頼っていては大幅な産業発展は望めないことは確かである。繰り返される不況の中で生産性の向上とイノベーションに励んだおかげで、多くの企業の体脂肪率は低下し、国際競争力のあるアスリートトに育っている。しかし、体脂肪は減らしすぎると、健康にはよくない。基礎体力も維持できなくなる。それよりも、足腰を鍛えるべきだ。少子高齢化に伴う国内市場の縮小を言い訳に、大手企業は内需を捨て、極端な輸出依存へと経営方針を転換し、国内経済の基礎体力は急激に弱体化する。これは、結局、実感なき好景気にすぎない。「すべての産業はまず内需にその根底を持たないと発達しないように思う」(石橋湛山『国産果物進歩』)。

 高度経済成長期は景気がよくなれば、収入も増え、明日への希望があり、人々はよく消費したが、いざなみ景気にはそんな光景は見られない。給料も上がらず、いわゆる消えた年金を始めとする社会保障制度への不信が将来への不安を増幅し、財布の紐は堅い。未来のない景気である。

 20061115日付『朝日新聞』は、いざなぎ景気とバブル景気、いざなみ景気を次のように比較している。なお、景気の期間区分については先の説とは異なっているので、データに若干違いが見られる。

 

主な景気拡大期の特徴

いざなぎ景気

6511月〜707

バブル景気

8612月〜912

現在の景気

022月〜

経済成長(実質国内総生産・年平均)

11.5%増

5.4%増

2.4%増

企業収益(経常利益・年平均)

30.2%増

12.1%増

10.8%増

物価(消費者物価指数)

27.4%上昇

8.5%上昇

0.4%下落

地価(全国市街地価格指数・商業地)

95%上昇

69%上昇

30%下落

月給(毎月勤労統計調査)

79.2%増

12.1%増

1.2%減

パート労働者比較(毎月勤労統計調査)

(データなし)

11.1(912)

21.4(068)

完全失業率(期中の最高〜最低)

1.01.6%

2.03.1

4.05.5

高齢化率(65歳以上の割合)

7.1(70)

12.1(90)

20.7(06)

消費ブーム

3C(カラーテレビ、車、クーラー)

日産シーマ、大型テレビ

デジカメ、DVD、薄型テレビ

 

 物価や地価もさることながら、月給のデータは目を覆いたくなるばかりである。「所得半減計画」でも立てているのではないかと勘ぐりたくなるほどだ。企業収益も落ちているけれども、労働者の置かれている環境は、明らかに悪化している。

 ソニーやパナソニック、ホンダなど戦後日本を代表する企業は財閥ではなく、町工場出身である。GHQは、1945年、政府に財閥の解体を指示する。対象となったのは三井・三菱・住友・安田の4大財閥、銀行中心の川崎・野村・渋沢、産業資本の浅野・大蔵・古河・、軍需産業拡大で生まれた日産・日窒・理研・中島・日曹である。この財閥解体がなければ、こうしたやる気と頑張りに溢れた企業は発展できず、戦後の経済成長も違う姿になっていたかもしれない。社長は社員の代表であり、「おやじさん」であり、「おかみさん」である。彼らは社員と寝食を共にし、現場からの声をよく聞き、それを開発・営業・経営に生かす。しかし、今の大手企業はかつての財閥のようになってしまったとも見受けられる。

 こうした大転換は制度学派の主張を裏付けている。アメリカで主流の新古典派は市場の自動調節メカニズムを重視し、カール・ポパーの反証可能性よろしく、変化は漸進的に解決されていく。小さな危機に関しては、確かに、新古典派の理論が妥当であろう。一方、ジョン・K・ガルブレイスに代表される「異端」とも呼ばれる制度学派の考えは、トマス・クーンのパラダイム理論同様、大きな危機に際して、適切である。制度は生まれたときには、その意義・理由はあったが、一度動き出すと、それが生き延びていくこと自身が目的となってしまう。そうした制度は市場のメカニズムに任せていては改善できず、意識的に改革していかなければならない。戦後日本の場合、この財閥解体がパラダイム・シフトである。

 不安定で薄給の雇用に加えて、セーフティー・ネットが不十分である現状では、出生率が上がるはずもなく、ますます少子化が進むのも必然であろう。すでに日本では、生産年齢人口(15歳〜64歳)が減少に転じ、2005年には総人口の減少も明らかとなっている。生産年齢人口の減少が始まれば、住宅価格は下落する。世帯数は人口ほどに急速に減らないだろう。しかし、将来、住宅需要は減少することはあっても、好転するのは望めない。住宅建設は、地価のみならず、国内の景気に大きな影響を与える。建設資材などの他に、引越に伴う耐久消費財の買換えの需要を呼ぶ。なるべく金を使わずにすませたいと思いながらも、引っ越すと、短すぎるカーテンで我慢しても、なんだかんだと出費がかさむ。少子高齢化の問題は社会保障に限らない。

 収入の低下は、地方経済にとっても、その再生を難しくする要因となっている。税収の減少は言うまでもないが、地方が活性化するためには、特産品の全国展開や観光旅行客の誘致が欠かせない。しかし、収入が少なくなれば、人々はとにかく安いものを優先的に購入し、旅行も控えざるをえない。これでは、地方は輸出や海外からの観光客の呼びこみなど外需に依存せざるをえなくなる。世界的な景気後退が起きれば、この偏重った経済は簡単に苦境に陥る。

 夏休みに、田舎にある母親の実家にリュックを背負って泊まりに行くと、祖父母がやさしく迎えてくれて、都会ではできなかった体験をちょっと恐がりながらも、胸を躍らせる。そんなバブル経済前まで常識的だったことは、今の子供たちは経験できない。迎えに来た祖父母の自動車に乗って、家までの道すがら、窓から見えるのは、シャッター街と放置された巨大建造物、自転車をこいでいる老人である。

 内需のみの経済が縮小再生産の道を辿ることは終戦直後の経験が教えてくれる。しかし、その主張は内需によって支えられている。彼らの言説は日本語によって守られているのであり、英語に翻訳されて世界で議論されるレベルにはない。

 自分が生き残るためにとられる選択の個人的な合理性が、それに反して、社会的な共倒れを招いてしまう。ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは、『資本主義・社会主義・民主私擬』の中で、人々は経済的行動ではパフォーマンスが高いのに、政治的な場合には低いと言ったが、経済もそれほどではない。

 こうしたしなやかさとしたたかさを失った日本経済がリーマン・ショックに襲われる。基礎体力が落ちた状態では、易々とは堪えきれない。麻生太郎首相は、当初、バブルの経験を世界に伝えると嘯いていたが、急速に各種経済指標は軒並み悪化し、そんな余裕などないことが露呈する。麻生政権は、総選挙によって誕生したわけではない。70年代のフォード大統領がそうだったように、選挙を経ない政権は弱く、経済危機への対策も不徹底になりかねない。新しい出来事だけが起きているわけではない。過去の教訓通り、打ち出される政策は見当はずれだったり、遅すぎたりして効果を上げない。政策当局は過去の経験を生かしながら、やりくりしていくほかないのに、それを怠っている。とうとう、09225日付『フィナンシャル・タイムズ』紙の社説に、日本の不況は政治のせいだと書かれてしまう。

 2009319日、IMFは、ロンドン郊外のホーシャムで開かれたG20財務相・中央銀行総裁会議に提出した資料を公表する。2009年の世界全体の成長率はマイナス0.5〜マイナス1.0%になると予測しているが、1月時点の世界経済見通しでは、戦後最低ではあるものの、それでも0.5%のプラス成長であり、下方修正したことになる。09年のアメリカの成長率のマイナス幅は、1月予測のマイナス1.6%から2.6%に拡大すると報告している。一方、09年の日本の成長率を1月予測のマイナス2.6%からマイナス5.8%へとさらに下方修正し、10年もマイナス0.2%と見こみ、08年から3年連続のマイナス成長と予想している。世界的景気後退の震源地のアメリカ以上に、日本の方が経済のダメージが大きいと危惧されている。「危険は侮ると、早く来る」(プブリリス・シルス)

〈了〉

 

参考文献

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